「や、やっと着いた……」荒い息を吐きながら千尋は玄関のドアアイから外の様子を伺ったが、誰もいない。いつもなら徒歩15分の距離なのに、今日はとても長く感じられた。「怖かった……」そんな千尋をヤマトはじっと見つめている。「はぁ……」千尋は息を吐くと家の中に入った。慎重に外の様子を伺いながら家中の雨戸をぴっちり締め、鍵をかける。いつもよりも念入りに千尋は戸締りをした。全ての部屋に鍵をかけると、千尋の心に少し安心感が芽生えてきた。「手を洗ってこなくちゃ……」洗面台に移動するとヤマトもついてくる。鏡を見ると青ざめた顔の自分が映っていた。「うわ……顔色悪い。今夜は栄養つけなくちゃ。ヤマトもお腹すいたでしょ? 今御飯あげるね」「ワオン!」ヤマトは嬉しそうに尻尾を振った——ドッグフードを容器に移し、水を置いたがヤマトは食べようとしない。じ~っと千尋を見つめている。「アハハ……私が食べるか心配してるの? 大丈夫、ちゃんと食べるからヤマトも食べて」その言葉を聞くと安心したのか、ヤマトは餌を食べ始めた。千尋はヤマトが餌を食べるのを見届けてから、自分の夕食の準備に取り掛かった。「は~本当は今日スーパーで買い物して帰りたかったんだけどな……。でも渡辺さんから肉じゃがもらったから、お味噌汁とサラダでも作ろうかな?」ブロッコリーを茹で、豆腐となめこの味噌汁を作り、冷凍焼きおにぎりを解凍して今夜の食事が完成した。時計を見ると19時を過ぎていた。「いただきます」手を合わせて貰い物の肉じゃがを早速口にしてみた。「美味しい!」渡辺の作った肉じゃがは甘みが少し強い味付けで、ほっこりとしたジャガイモによく味が馴染んでいた。「流石、渡辺さん。今度作り方教えて貰おうかな?」食事を終えると千尋は明日の朝食とお弁当の準備を始めた。お味噌汁用に青菜をざく切りにしてポリ袋に入れ、アスパラをベーコンで巻き、つまようじで差したものを数本用意する。「後はさっきのブロッコリーの残りに卵でも焼けばいいかな? そうだ! 渡辺さんにはしょっちゅうおかずを貰ってるから、たまには私から何か差し入れしてあげたいな。クッキーでも焼いて持っていこう!」千尋の趣味の一つにお菓子作りがある。祖父が健在だった頃はよくケーキを焼き、2人で仲良く食べていた。冷凍庫の中には作り置きしていたクッキー生地
風呂から上がると居間でヤマトが既に眠っている。千尋は冷蔵庫から缶チューハイを持ってくるとソファに座り、PCを開いてネット配信ドラマを見ながらお酒を飲んだ。記憶喪失になってしまった恋人を一途に思い続ける女性が主人公の物語である。「う~ん。まさか恋人の昔の彼女が出てくる展開になるとは思わなかったな……。面白い展開になってきたみたい」1話分を見終わると片づけをして自室に戻ってスマホの画面を開いた。「あ、店長と渡辺さんだ」二人からいずれも千尋を心配する内容のメッセージが届いていた。そこで帰りに後を付けられていた気配を感じたとメッセージを送り、部屋の電気を消して千尋は眠りについた——****ピピピピピ……目覚ましの音で千尋は目を覚ました。ベッドの側にはいつの間にかヤマトがうずくまって眠っている。「う~ん……」軽く伸びをすると着替えをし、雨戸を開けて太陽の光を取り込む。朝食とお弁当の準備をしているとヤマトが起きてきた。「おはようヤマト。御飯もう少し待っててね」手早くお弁当を詰め終え、餌と水を与えるとヤマトは夢中になって食べ始める。それを見届けると千尋も朝食を口に運んだ—— 家の戸締りをして玄関を開けた時、門に設置してある郵便受けから白い紙が覗いていた。取り出してみると、それは白い封筒だった。手にした途端、直感的に恐怖を感じてゾワッと身体が総毛立った。辺りをキョロキョロ見回しても人の気配は感じられない。すぐに封筒をカバンにしまい、玄関に鍵をかけるとヤマトを連れて千尋は急いで走り出した。(早く、人通りの多い通りまで出なくちゃ!)ハアハア息を切らしながら走り続け、いつの間にかヤマトに引っ張られて走る形となっていた。ようやく商店街へたどり着いた千尋は辺りを警戒しながら職場へと向かった。幸い、今日は遅番の日だったので中島が先に出勤していた。「どうしたの青山さん。そんなに息を切らしながら出勤してくるなんて。まだ時間に余裕があるのに」「おはようございます……実は今朝家のポストに手紙が入っていたのですが、何だか怖くて中を見ることが出来なくて。でも捨てるのも怖くて持って来てしまったんです」「いいわ、それなら私が手紙を開けてあげる。貸してくれる?」「……どうぞ」中島は手紙に鋏を入れて、中身を取り出した。「……」黙り込んでしまった中島が心配になり、
遅番だった渡辺が出勤し、客が引けた合間に3人は集まって話をしていた。「……どうしよう? 警察に相談する?」渡辺が千尋に尋ねる。「でも直接的な被害が出ない限り、警察は動いてくれないんじゃないの? まだ今の段階ではストーカーと判断してくれるかしら?」中島が眉を顰める。2人のやりとりを千尋は黙って聞いていた時、中島の業務用スマホがメッセージを着信した。メッセージを開いた中島は「あっ!」と口を押えた。「店長? どうしたんですか?」尋ねる千尋。「青山さん。これ見てくれる?」「!!」スマホを受け取り、メッセージを読んだ千尋に戦慄が走った。『どうしてお店に青い薔薇が飾ってあるんだい? あの薔薇は君へのプレゼントなのに』「何!? 一体何が書いてあったの!?」渡辺は千尋からスマホを奪うように取り、顔色が変わった。「……青い薔薇の送り主はここの店に来てるのかも……」****「それじゃ、電気かけていきますね~」里中は患者の身体に毛布をかけるとカーテンを閉めてマッサージ器の装置を作動させた。「フワ~ッ」もう何度目かの欠伸を噛み殺していると、丁度隣で同様に装置を動かしていた先輩から話しかけられた。「おい、何だよ。今日のお前、随分眠そうにしてるじゃないか?」「いや~実は昨日家に帰った後、夜中まで何度も非通知で電話がかかってきたんですよ。しかも電話に出れば無言だし、出なければなりっぱなしで。結局最後は相手にしてられないんで、携帯の電源を切ったんですけどね。もう訳が分からないですよ」「何だよ、誰かに恨みでも買ったか?」「何言ってるんですか。俺は品行方正な勤労者ですよ、ちゃんと税金だって納めてるし……」「いや、それとはちょっと違うと思うぞ? でもそんなに眠いなら入り口の自販機でコーヒーでも買ってきたらどうだ?」「ふわ~い」幸い小銭はユニフォームのポケットに入れてある。里中はリハビリステーションの入り口にある自販機に向かうと、丁度商品の入れ替えをしている最中だった。「あ、すみません。もう少しで補充終わりますから……あれ? 里中じゃないか」オペレーターの男性が顔を上げた。「あ、今日は長井の巡回日だったんだ」「ああ、でも昨日も来てたけどな。ただ違う場所で補充してたんだ」長井と呼ばれた男と里中はこの場所で知り合った。何度か顔を合わすうちに意気
この日――千尋は手紙が気がかりで仕事に集中出来なかった。来店する男性客は愚か、出入りの業者の男性まで全てが青い薔薇の送り主ではないかと思うと、どうしても対応がぎこちなくなってしまう。そんな千尋の様子を中島と渡辺は心配そうに見ていた。****――18時渡辺と早番の中島の勤務終了時間である。「ごめんね。千尋ちゃんを残して帰るの心配なんだけど、これから町内会の会議があるから参加しなくちゃいけないのよ」渡辺は申し訳なさそうに謝った。「そんな、私個人の問題で渡辺さんにご迷惑かける訳にはいきませんから。あ、そうだ」千尋は急いでロッカールームに行くと紙の手提げ袋を持ってすぐに戻ってきた。「これ、昨日お借りしたタッパと私が焼いたクッキーです。肉じゃがとても美味しかったです。ありがとうございます」「まあ!千 尋ちゃんの手作りクッキー? ありがとう! 後で家族と一緒に食べるわ」渡辺はにっこり笑って受け取った。「あ、ちゃんと店長の分もありますからね。デスクに置いてあるので帰る時に持って行って下さい」「ありがとう、青山さん」渡辺が紙袋を持って帰っても中島はまだ帰ろうとしない。店の奥のPCに向かって作業をしている。それを見かねた千尋が声をかけた。「あのー店長はお帰りにならないんですか?」「う~ん……ちょっと残務処理があるからね。今日は最後まで青山さんと店に残るわ。それに青山さんを1人で残しておくの心配だし。実はね、人事に掛け合って、もう少し人員を増やして貰おうと思って今本社にメール書いてるのよ。正社員じゃなくてもパートや若いバイトの子でもいいしね。ほら、開店準備や閉店準備って一人じゃ忙しいじゃない?」中島はPCを打つ手を止めて言った。自分を心配してくれているという思いが込められている事に気付いた千尋は嬉しい気持ちで一杯にり、お礼を述べた。「ありがとうございます。店長」「いいのよ、気にしなくて。それよりも青山さん、今夜は家まで送ってあげるわ」「え? いいんですか?」「いいのいいの。どうせ私は車で来てるんだし、乗せて行ってあげる」「でも……」その時。自動ドアの開く音とチャイムが店内に鳴り響いた。「あ。ほらお客さん来たわよ。さ、閉店まで後少し。頑張らなくちゃ」「はい。私が対応しますので店長は今の仕事続けてて下さい」中島に言い残すと千尋はそ
ガラガラガラガラ……シャッターを閉める音が店内に鳴り響く。千尋は鍵をかけると中島が声をかけてきた。「それじゃ帰ろうか? あ……でも何か買い物ある? スーパーに寄る?」「でも……ご迷惑じゃ……」ヤマトのリードを握りしめる千尋。「私もね、スーパーで買いたいものがあるんだ。今日はね、フライのお惣菜の特売日なのよ! しかも広告が入ってたんだけど、新商品の発泡酒が発売されたから、買って試してみたくて」中島は千尋と違い、料理はあまり得意ではない。もっぱら、コンビニ弁当かスーパーの弁当、総菜と言う食生活だ。本当は外で飲んで帰りたいけど、車で来てるからね。……と言うのが、もはや口癖となっていた。「それじゃ、お願いします」「気にしなくていいって。じゃ、今店の前に車回してくるわね」中島が車を取りに行くと千尋はヤマトの前にしゃがみ、頭を撫でなた。「皆、私を心配してくれていい人ばかりだよね。で……も本当に誰なんだろう。お爺ちゃんもいないあの家に1人きりなのはやっぱり怖いよ。ヤマト、絶対に私の側から離れないでくれる?」ヤマトは千尋の目をじっと見つめながら黙って聞いていた。「お待たせー」ワンボックスカーに乗った中島が戻ってきて窓を開けて手を振る。「青山さんは助手席に座って。ヤマトは…‥後部座席でいいかな?」「はい、それで大丈夫です」「うん、じゃあ乗って乗って」**** 車で走る事、約10分。大型スーパーに到着するとヤマトを車に残し、2人のショッピングが始まった。「あの、店長さえ良ければ私の家で一緒に食事しませんか?」ショッピングカートを押しながら千尋は中島に尋ねた。「え? お邪魔していいのかしら?」「はい、むしろ一人になるのは……ちょっと……」最後の言葉がしりすぼみになってしまった。「うん、それじゃ決まりね」 それから約40分後、食材やらお惣菜を大量に買い込んだ2人が車に戻ると、待ちくたびれたのかヤマトが眠っていた。「あらま、眠ってるね」「はい、家に着いたら起こすのでこのまま寝かせておいて貰えますか?」「勿論かまわないけど、それじゃ行きますか」**** 家に到着すると、千尋はすぐにヤマトを起こして家に入らせた。「お邪魔します……。わあ~すごく綺麗にしてるのね。青山さんの家に比べたら、私なんて汚部屋暮らしかも」中島は感心
彼女の様子がおかしい。何をそんなに怖がっているのだろう?もしかして君を脅かす人間がいるのかい?あいつか?あいつのせいなのか?だとしたら排除しなければ……****—―0時半「クソッ! 何なんだよ! お前一体誰なんだ!? 毎晩毎晩人の携帯に無言電話かけてきやがって!」里中は無言の相手に電話越しに怒鳴りつけていた。折角眠っていた所を例の無言電話で起こされてしまったので里中の怒りは沸点に達していたのだ。無言電話がかかってきて早1週間。連日連夜何十回も無言電話がかかってくるので、もういい加減我慢の限界だ。スマホの電源を切ってしまえば良いのだろうが、それでは相手に負けを認めてしまうようで嫌だった。男の意地である。「いいか!? これ以上無言電話をかけてくるなら発信履歴を割り出して警察に通報してやるからな!!」「……るな」すると初めて受話器から声が聞こえてきた。「あ? 何だって?」「……ちか……よるな……」「はあ? 近寄るなって何のことだ!?」すると今度ははっきりと声が聞こえた。「彼女に近寄るな!!」ボイスチェンジャーでも使っているのか、耳障りな大声が耳に飛び込んでくる。「おい? 何言ってるんだ? 彼女って誰の事だ!?」プツッ!そこで電話は切れてしまった。(何なんだよ……。彼女に近寄るなって……)そこで、里中は電話がかかり始めた先週のことを思い出してみた。(確か、あの日は千尋さんが病院にやってきた日で、俺は遅れて来た彼女を駐車場まで迎えに行って、その時に視線を感じて……)ふとある考えが浮かんだ。(もしかして、あの無言電話の相手は千尋さんの彼氏……? いや、待てよ。それならこんなまどろっこしい真似しないで、はっきり自分が彼女の彼氏だからと俺に宣言すればいいはずだろう)里中は不吉な予感がした。(あの無言電話の相手……ひょっとしてストーカー? 大体何で俺の携帯番号を知ってるんだ? 俺のことも千尋さんのことも知ってる人間? だとしたら病院関係者だろうな……。とにかく、今日は千尋さんが病院に来る日だ。彼女に最近誰かに付きまとわれてないか聞いてみよう)……結局里中はこの日、一睡もすることが出来なかった――****—―翌朝「え? 千尋さん今日は来ないんですか?」いつも通り出勤した里中は主任から、代理で別の人物が生け込みに来ること
「おい、千尋ちゃん暫くここに来ないんだって? 体調が悪いらしいじゃないか。早く良くなるといいな。患者さん達もヤマトに会えるの楽しみに待ってるし」患者のマッサージを終えて片付けをしていた里中に先輩の近藤が声をかけてきた。「え? 千尋さん具合悪いんですか!? 誰にその話聞いたんですか!」里中は驚いて近藤に詰め寄る。「お前、聞いてないのか? あ~そっか。千尋ちゃんの代理の人がやってきた時、お前患者さんの対応中だったな。ほら、あの人に聞いたんだよ」近藤の示した先には中島が花を飾っている所だった。「あの人が店長?」「うん、俺よりは年上だろうけど中々美人だよな~。ま、俺の彼女には負けるけどな。何たって笑顔が可愛いし……」里中はそんなのろけ話を上の空で聞いていた。(どうする、今千尋さんの具合の様子をを尋ねてみるか? でも正直に答えてくれるだろうか……)そこまで考えて、里中にある考えが閃いた。****「よし、終わり。うんうん、我ながら完璧な仕事ね」中島は自分が仕上げたフラワーアレンジメントを満足気に眺めた。秋らしく、暖色系の色でまとめてピンポイントに赤や紫の色の花を添えてみた。仕事も終了したので責任者に声をかけて帰ろうとした時に、突然中島は声をかけられた。「すみません。『フロリナ』の方ですよね? 少しよろしいですか?」中島は声をかけてきた青年を見た。(あら、随分若いスタッフね)「はい。何か御用ですか?」「俺、里中って言います。さっき同僚の先輩から千尋さんの体の具合が悪いって聞きました。それで、ちょっと気になる事があって……」(え? 何この男?)突然千尋のことを尋ねてきたので身構えると、里中が慌てて弁明した。「あの、実は1週間程前に千尋さんと駐車場に一緒にいた時に強い視線を感じたんです。その日の夜から毎晩俺の携帯に無言電話がかかってくるようになって、昨夜とうとう相手がしゃべったんですよ。彼女に近寄るなって。だから千尋さんに何かあったんじゃないかと心配になったんです」その言葉を聞いて中島は眉を顰めた。「あなた……失礼ですが、うちの青山とはどのような関係ですか?」「は? 関係?」「彼女と交際してるんですか!?」中島は口調を強めた。「とんでもないですよ! 病院で知り合った、友人関係でもない只の顔見知りですよ」「それじゃ、青山さんはあ
「この書類、新しい契約書になります。よろしくお願いします」「どうもありがとう」契約書を受け取ると中島は帰って行った。(本当は自分でこの契約書を持って千尋さんに会いに行きたかったけど、怯えさせてしまうかもしれない。それよりも俺のやらなくちゃならないのは犯人を見つけ出すことだ。一体どうすればいいんだ……?)具体的な考えはまだ何も浮かんでこなかったが、あまり時間はかけたくない。(取りあえず、共通の知り合いにかまをかけてみるか……?)気持ちを新たに、里中は仕事に戻って行った――**** 休憩時間の合間を縫って、里中はさぐりを入れてみることにした。けれども男性スタッフ全員が妻帯者であったり、彼女を持っていた。しかも全員が里中が尋ねもしないのに、のろけ話をしてくるので話にならない。(参ったな……。ここのスタッフかと思っていたのに空振りだったみたいだ)「……コーヒーでも買って来るか」 自動販売機の前でコーヒーを買おうとしていると背後から声をかけられた。「今日もコーヒー買うのか? 里中」振り向くと、そこにはオペレーターの長井が立っていた。「そうか、今日も入れ替え日だったのか」(そう言えば長井もここに出入りしている人間だから、千尋さんの顔を知ってるかもしれないな)長井の顔をじ~っと見た。「な、何だよ。男に見つめられる趣味は無いぞ」「なあ、長井……」「ん? 何だ?」「お前彼女いる?」「いきなり何言い出すんだよ。まあ、正直に言うと現在募集中かな」「ふ~ん。そうか」(長井は彼女がいない。可能性はあるな……。でもストーカーするタイプには見えないけどな)「突然どうしたんだよ? そういうお前はどうなんだ? 彼女いるのか?」「そんなのいねーよ。ま、今は仕事で精一杯だからな」(本当は千尋さんが俺の彼女になってくれたらなー)里中はお金を入れて自販機の缶コーヒーのボタンを押した。ガコン!出て来たコーヒーを取り出す。「それじゃ俺もう仕事に戻るわ。じゃあな」手をヒラヒラ振り、里中は缶コーヒーを持って職場に戻って行った――****ーー17時「お疲れさまでしたー」退勤時間になり、里中は帰ろうとすると野口に声をかけられた。「里中、『フロリナ』に行くんだろう?」「いえ、行くのやめにしました。今日代理で来た方に書類渡しましたから」「そうなの
運ばれてきた料理を3人で食べると千尋は帰って行った。「今日は悪かったな? 今度は二人きりで食事出来るといいな?」職場に戻りながら近藤が里中に声をかける。「何言ってるんすか? 先輩が気を利かせてあの場から居なくなってしまえば二人で食事出来たのに」「ひっでえなあ、それが先輩に対する口の利き方かあ?」わざとお道化たように話す近藤を里中は苦笑いしながら見ていた。**** その後――千尋と渚は約束通り、二人が休みの日は色々な場所へと出掛けた。動物園、映画、遊園地、ドライブ……渚が行ってみたいと言っていたありとあらゆる場所へと足を運んだ。渚は始終楽し気にしていたが、何故か寂しげに見える姿が増えてきた。けれど千尋はそのことには一切触れなかった。(きっと時がたてば、渚君の方から話してくれるはず……)そう信じて疑わなかったのである。 ――2月のある日のこと「ねえ、渚君。今日はお休みでしょう? 私は仕事だけど何か予定あるの?」千尋が朝食を食べながら尋ねた。「え? うううん。特には無いよ。しいて言えば……家電製品でも見てこようかなと思ってる」「何か買いたい家電製品あるの?」「うん、ブレンダーかミキサーでもあれば便利かなって。あ、でも買うかどうかはまだ未定だけどね」「そうなんだ。良いのが見つかるといいね」「そうだね……」渚は曖昧に笑った。 仕事のない日はいつもそうしているように渚は千尋を店の前まで見送った。「それじゃ、仕事頑張ってね。今夜のメニュー楽しみにしておいてね」「ありがとう、それじゃまた後でね」千尋は笑顔で手を振ると通用口から店へ入っていく。その姿を見送ると渚は駅へ向かった——**** バスを乗り継ぎ、渚は市内一大きな総合病院の前に立っていた。千尋が編んでくれたマフラーで口元を隠し、帽子を目深に被ると渚は病院の中へと入って行った。渚は入院病棟に来ていた。辺りを見渡し、人がいないのを見計らうと個室の病室へと入って行く。その個室には若い男性が眠り続けていた。ベッドの柵に取り付けられているネーム札には年齢も名前も記入がされていない。「……」拳を握りしめ、黙ってその患者を見下ろしていると、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。「!」慌ててロッカールームに入って、隠れる。けれど足音は遠ざかって行った。入り口に耳を付け
それから暫くして千尋がリハビリステーションにやってきた。野口と新年の挨拶を交わしている。丁度手が空いていた里中は主任が去り、千尋が一人になると近づいた。「おはよう、千尋さん」「あ、おはようございます。里中さん、新年明けましておめでとうございます」千尋は頭を下げた。「あ、そうだったね。明けましておめでとう」里中も頭を下げた。「あの……千尋さん」「はい、何でしょう?」「実はこれなんだけど……」里中はポケットから紙袋を取り出した。「?」「俺、年末年始里帰りしていて千尋さんにお土産を買って来たんだ。もし良かったら受け取ってもらえないかな?」そして千尋に紙袋を手渡した。「私にですか?」里中は黙って頷いた。「今見ても?」「ど、どうぞ」中から出て来たのは色鮮やかなパワーストーンのブレスレットだった。千尋は目を見張った。「うわあ……綺麗。でも、こんな高価なもの頂くわけにはいきません」「あ、見た目は高そうに見えるけど、そんなんじゃないから。遠慮しないで受け取ってよ。ただのお土産なんだから」ハハハ……と笑うが、本当は気軽に渡せるような金額では無かった。(く~っ。今月は食費削らないとな……。だけど千尋さんの喜ぶ姿を見れたからいいか)「里中さん。お礼に今日のお昼ご飯、ここのレストランでご馳走させて下さい」「い、いや、何言ってるんっすか! 女の人に男がご馳走してもらなんて変ですって!」「でも、それじゃ私の気が済まないんです」千尋は食い下がる。(でも昼飯代浮くし、何より千尋さんと一緒に食べる事が出来るなら……)「それじゃ……よろしく」里中は照れくさそうに笑った——****「――で、何で先輩までここにいる訳ですか?」里中は面白くなさそうに近藤を見た。「まあまあ、そう言うなって。俺は先にここに来ていた、そしてお前たちがやってきた」近藤は得意げに言う。「はあ」里中は興味なさげに返事をする。「そして生憎、満席。けれど、俺が座っているテーブルは偶然にも2つ席が空いていた。そこで、二人をこの席に呼んだと言う訳だ」「ありがとうございます、近藤さんのお陰で席を確保する事が出来ました」千尋は嬉しそうに礼を述べる。「チエッ」里中は誰にも聞こえない様に小さな声で舌打ちをした。折角二人で食事が出来ると思ったのに、これでは何の意味も無
翌朝――渚と千尋は向かい合って朝食を食べていた。今朝の渚はいつもと全く変わりが無い様子だった。(一体、昨夜はなんだったのかな……?)「何? 千尋。さっきから僕のこと見てるけど」千尋の視線が気になったのか渚が話しかけてきた。「あ、何でもないの」「そう? 今朝の千尋はいつもと違う感じがするからさ」「あの……ね、渚君」「何?」「昨夜のことなんだけど……」「うん。あ、ごめんね。結局千尋に片付けさせちゃって」「すぐ眠れたの?」「勿論、日本酒を飲んだからかな~昨夜は眠たくてすぐに寝ちゃったよ」(やっぱり覚えていないんだ)千尋は心の中で思った。「え? 昨夜僕何かやっちゃった? 何も覚えていないんだけど……」「大丈夫、別に何も無かったから。ただ、今日から仕事初めだったから良く眠れたかなって思って」「千尋はよく寝れた?」「うん、寝たよ」本当は昨夜のことが気になって、あまり眠れなかったが伏せておいた。「ねえ、千尋」食後のコーヒーを飲みながら渚が尋ねてきた。「何?」「これからはさ、二人の休みが合う時は色々な場所へ一緒に出掛けたいんだ。駄目……かな?」「駄目なわけないじゃない。うん、一緒に出掛けよう」「良かった~。ありがとう」渚は子供の様に無邪気に笑みを浮かべた。そんな様子を千尋は黙って見つめていた――****「おはようございます!」千尋は元気よく出勤してきた。店には早番の中島と原が既に出勤している。「おはようございます。青山さん」ほうきで店の外掃除をしていた原が挨拶を返した。「おはよう、青山さん」切り花の世話をしていた中島も挨拶してくる。「青山さん、新年早々だけど今日は山手総合病院に行く日よね。道路の渋滞情報が出ていたから早めに出たほうがいいわよ」「ありがとうございます、それじゃ早めに準備して行きますね」****山手総合病院――患者のマッサージを終えた里中がポケットから小さな紙袋を取り出して、ため息をついた。「お? 里中、それ一体何だ?」近藤が目ざとく見つけ、背後から声をかけて来た。「べ、別に何でもないですよ」里中は顔を赤らめながら急いでポケットにしまおうとするが、近藤に奪われてしまう。「か、返してくださいよ!」「へえ~山梨県の土産の袋か。……そういや、お前の実家って山梨だったよな? 年末里帰りし
渚が仕込んだ味噌味の海鮮鍋は最高の味だった。「やっぱり渚君が作った料理は最高だね。流石調理師免許持ってるだけのことはあるね」千尋は鍋料理を笑顔で食べている。「ありがとう。千尋が選んだ日本酒も美味しいね~」「フッフッフッ。この日本酒はね、東北地方にある蔵元が作った日本酒なの。フルーティーで、とても日本酒とは思えない口当たりの良いお酒なんだよ。若い女性の間で大人気なんですって。だからついつい飲み過ぎちゃうんだけど」「ははは……。千尋は本当にお酒が好きなんだね。でも明日から仕事なんだからあまり飲み過ぎない方がいいよ?」「そうだね、また今度一緒に飲もうね。この先いつでも飲めるんだもの」「この先いつでも……か」一瞬渚の顔に影が差した。「どうしたの?」「ううん、何でもないよ。温かいうちに食べてしまおう?」 ****——食後「ほら、渚君はもう今夜は休んで」「でも片付けは僕がやるよ」「何言ってるの? 今日海で具合が悪くなったでしょう? 私がやるから大丈夫だってば」 食事が済んだあと、片付けをすると言って聞かない渚を千尋は無理に部屋に追いやった。渚は最後まで自分がやると言って聞かなかったが、やはり体調がまだ優れないのか最終的には千尋の言うことを聞いて部屋に戻って行った。「そうだ、どうせなら洗濯もしちゃおう」以前録画しておいたドラマを観ながら千尋は洗濯機を回した。 それから約1時間後、洗濯を干し終えた千尋が自分の部屋へ戻ろうとしたその時。「う……うう……」渚が使っている部屋から苦しそうな呻き声が聞こえてきた。「え? 渚君?」(もしかして具合でも悪いのかな?)「渚君、大丈夫?」声をかけてみたが返事は無い。それでも苦しそうな渚の声が聞こえる。「渚君、入るね」千尋は引き戸を開けた。中へ入ると渚はベッドの上で酷くうなされている。「渚君! しっかりして!」千尋は渚の枕元に行くと声をかけた。渚は苦しそうに寝言を言っている。「い……嫌だ……。助けて……」「渚君!」千尋は必死で渚を揺さぶった。その時である。「ハアッ……ハアッ……!」渚が突然目を開けて千尋を見た。そして一瞬泣きそうに顔を歪めるとベッドに横たわったまま千尋を腕の中に抱き込んだ。「キャアッ!」千尋は渚の身体の上に乗るような形になってしまった。「な、渚君……?
念の為にと持参していたシートに並んで座りながら二人は海を見ていた。真冬の海なので、人の姿はない。真っ青な水平線の海は青空の下、良く映えた。「渚君、冬の海って何だか綺麗に見えない?」風に吹かれた髪の毛を押さえながら千尋は渚に尋ねた。「そうだね。人もいないからゴミも無いし。だから余計に綺麗なんだろうね」「渚君の両親て、海が好きな人だったんじゃない? だって『渚』って名前付ける位なんだから」「さあ、どうなんだろう? 僕にはよく分からなくて……」渚は曖昧に返事をしたが、顔が強張っている。「渚君? どうしたの?」「え? 何が?」「何だか顔色が悪いみたいに見えるけど……?」「そんな事、無いよ……」渚は笑みを浮かべたが顔は青ざめている。「もしかして具合が悪いの? もう帰ろうか?」「うん……ごめんね。千尋」渚は何とか立ち上がったが足元がふらついている。「く……」額には汗が滲んでいた。「ねえ、渚君。無理しないで、少しここで休んでいこうよ?」すると渚は子供の様に頭を振った。「嫌だ……。この場所から離れたい……」「……分かった。それじゃ私に掴まって?」千尋は渚の大きな身体を何とか支えながら海から遠ざかっていく内に少しずつ渚の顔色が良くなってきた。****「大丈夫?」渚を休ませる為に近くのファストフード店に入ると千尋は心配して尋ねた。「ごめんね……千尋。折角二人で楽しもうと思ってたのに」「渚君……。ひょっとして……」海が怖いの? 千尋はそう尋ねたかったが、言葉を飲み込んだ。ようやく体調が良くなったのに、余計な話をして再び渚の体調を悪くさせるにはいけない。「何?」コーヒーの入った紙コップを手に渚は返事をした。「うううん、何でもない。コーヒー飲んだら帰りましょ?」「そうだね。明日からお互い仕事だしね。今夜の食事は何にしようかな……」「今夜も夜は冷えそうだから、お鍋なんてどう?」「それはいいねー。千尋はどんな鍋が好き?」「鍋料理は何でも好きだよ? 渚君は?」「それじゃ、今夜は海鮮鍋にしよう。帰りに駅前のスーパーで材料買って帰らないとね」 その後二人は再び電車を乗り継ぎ、地元スーパーで海鮮鍋の材料を買い込んで帰路に着いた——**** 二人で並んで台所に立ち、鍋の準備をしている。そんな渚を千尋は横目で見てみると、鼻
クリスマスも終わり、新しい年が始まった。千尋と渚は年末は家中の大掃除をし、新年は初詣に二人で出かけた後はお互い本を読んだり、カードやボードゲームで遊んだりと、好きなことをしてのんびり過ごした。そして休みの最終日――「ねえ、千尋。明日二人で一緒に出掛けない?」渚が外出を提案してきた。「うん、いいね。でも出掛けるって何処へ行くの?」「前に僕が千尋と行ってみたい場所を色々話したの、覚えてる?」「うん。覚えてるよ」「それじゃ、水族館に行ってみたいって話したことは?」「勿論、ちゃんと覚えてる」「早速行ってみようよ!」**** 電車を何本か乗り継ぎ、1時間以上時間をかけて二人は水族館にやってきた。この水族館は海沿いに建てられ、眺めも最高な場所にある。館内に入ると、中は子供の姿は殆ど見えず、若い男女のペアばかりだ。皆腕を組んだり、手を繋いでいる。「「……」」千尋と渚は顔を見合わせた。「手……繋ごうか?」渚が手を差し伸べてきたので千尋は遠慮がちに手を繋ぐと、渚は指を絡めてしっかりと握りしめてきた。千尋は驚いて渚の顔を見上げたが、渚は横を向いて目を合わせない。けれどその耳は赤く染まっている。なので千尋もキュッと握り返すと、渚がこちらを向いた。「行こうか? 渚君」二人で薄暗い館内を歩きはじめた。巨大な水槽が照らされて色鮮やかな熱帯魚の泳ぐ姿やエイが優雅に泳ぐ姿、大きな白熊や可愛らしいラッコ・ペンギン……それらを二人で見て回る。 最後にイルカやアシカのショーを観覧したところで、海沿いのカフェで二人でランチを食べることにした。千尋はクラブサンドセット、渚はハンバーガーのランチプレートをそれぞれ注文をした。 「楽しかった? 千尋」「うん、とっても楽しかった。水族館なんてもう随分昔に行ったきりだったから」「誰と一緒に行ったの?」「う~ん。高校生の時付き合ってた人だったかな? でもその人とはあまり長くは続かなかったんだけどね」「千尋、付き合ってた人いたの?」渚は驚いたように尋ねてきた。「う、うん……。そうだけど?」「そっかー。残念だなあ」「何が残念なの?」「僕が千尋の初めてのデート相手じゃなくて」「デート……? デート!?」(そっか、これって一応デートに入るんだ。ちっとも意識してなかった)「あれ? そう思ってたのは僕だけだっ
「千尋……怪我は無い?」「う、うん。大丈夫。」「良かった……」渚は千尋を思い切り強く抱きしめると安堵の息を吐いた。「な、渚君……もう大丈夫だから。は、離して……」「え?」その時、初めて渚は千尋を抱きしめているのに気が付いたのか、顔を真っ赤に染めて慌てて千尋を離した。「ご、ごめん……。千尋が心配になって、つい……」「い……いいよ。そんなこと気にしなくて……あ! 大変! 鍋が噴きこぼれそうだよ!」「うわ! ほんとだ!」渚は慌ててガス台に戻り、火を弱めて料理に続きを始めた。その姿を見ていた千尋の心臓はドキドキいってる。(びっくりした……。まだ渚君の匂いが残ってる気がする……) パスタも出来上がり、テーブルの上には他にサラダとチキンが並べられた。ケーキは食後にと冷蔵庫に冷やしてある。椅子に座ろうとすると、渚が話しかけてきた。「そうだ! いいものがあるんだ」そう言うと席を立ち、大きな紙袋を持って戻ってきた。「なあに? それ?」「ほら、小さいけどクリスマスツリー買って来たよ」それはテーブルの上の乗りそうな小さなクリスマスツリーだった。「わあ。可愛い」千尋が喜ぶと更に渚は言った。「まだあるよ。はい、クリスマスプレゼント。…気に入るかなぁ?」渚は小さなラッピングされた袋を手渡した。「え? 私に?」千尋が中を開けてみるとそれは可愛らしい犬のデザインのネックレスだった。「犬の……」「うん、千尋は犬が好きなんだよね? だから探して買ってみたんだ。つけてあげるよ」渚は千尋の背後にまわり、ネックレスをつけると鏡を見せた。「良く似合ってるよ、千尋。すごく綺麗だよ」熱を帯びた渚の話し方に胸の鼓動が高鳴る。「あ、ありがとう」何とか、それだけを必死に言った。「実は私からもプレゼントがあるの」千尋は足元に置いておいた紙袋を渚に手渡した。「開けていいの?」渚の問いに千尋は黙って頷いた。「これは……」そこに入っていたのはダークグリーンのマフラーだった。「もしかして手編み?」「お店の休憩中に毎日、ちょっとずつ……ね。気に入ってくれるといいけど」渚はマフラーを巻き付けると笑顔を向けた。「勿論だよ! 僕の一生の宝物だよ」「一生だなんて、大げさだよ」「僕がどれほど今幸せか…言葉では言い表せない位だよ。ありがとう、千尋」その後、
「うわ……ほんとだ。俺とタメかよ。なら敬語なんていらないな?」里中は少しだけ口元に笑みを浮かべた。「うん……? それにしても何だかここに写ってる写真と、今のお前雰囲気が違う気がするな」顔の作りは全く同じだが、目の前にいる渚は終始笑顔で人懐こい印象がある。一方免許証に写る渚の顔はどことなく目つきが鋭く、やさぐれた印象を与える。「僕は写真に写ると、少しイメージが変わるんだよね」渚は免許証をひったくるように里中の手から取り上げた。「それじゃ、そろそろ僕は帰るね。冷蔵庫にヨーグルトとイオン飲料を入れておいたから良かったら飲んで。あ、それから冷凍食品も幾つか買ってあるよ」「そんなに買ってきてくれたのか。悪い、今金を……」「あーそんなの大丈夫だから。お金は近藤さんから貰ってあるから。本当、いい人だよね。近藤さんて」「ああ…お前もな」「いいんだよ、気にしないで。あ、それから今夜のクリスマスパーティーも中止にしたよ」「え? どうして?」里中は首を傾げた。「千尋が言ったんだ。折角のクリスマスパーティ、里中さんが一人出席できないのは気の毒だから今回はパーティーに参加しないって言ったら、その流れで中止になったんだよ」「! そんな、俺一人のせいで……。ほんと、俺って駄目だな。お前にも変な嫉妬心なんか持って……」「里中さんはすごくいい人だと僕は思うよ。職場での評判すごくいいんだってね。お年寄りの患者さん達をすごく大切にしてくれてるって。だから……僕も思ったんだ。この先、僕にもしものことがあったら……千尋のことよろしくね」渚の顔に影が落ちる。「お前、またそんなこと言って……。一体どういう意味なんだよ」「別に、言葉通りの意味だよ。僕はずっと千尋の側にいる事は出来ないんだ。でも、この話は絶対に千尋にはしないでね? 心配させたくないから」「だから、どうして千尋さんの側にずっといられないって言うんだ?」納得できず、里中は追及する。(こいつ……何て顔してるんだよ。でもこれじゃ、無理に聞けないな)「分かったよ。俺もこれ以上聞かない、約束する」すると、渚の顔にほっとした表情が浮かんだ。「ありがとう、じゃあ帰るよ。ちゃんと休まないと風邪治らないからね?」「ああ、分かってるよ。サンキューな」渚は玄関のドアを開けて出て行った。里中は渚が出て行くのを見届けると再
こんなはずじゃなかったのに——クリスマスイブ、里中は高熱を出してワンルームマンションの自分の部屋で寝込んでいた。「くっそ……頭がズキズキする………」前日の夜、クリスマスパーティーのことを考えると興奮して眠れなかった里中。コンビニで買って来た度数の強いアルコールを部屋で飲み、そのまま布団もかけずに眠ってしまった。そして朝起きた時には酷い風邪を引いていた。何とか職場には風邪の為に出勤出来ない旨を話し、近藤にも詫びを入れて貰うように主任に電話を入れる事が出来たのだ。(先輩、すみません……)熱で朦朧となりながら心の中で近藤に謝罪した。時計を見ると昼の12時を少し過ぎた頃だった。「あ~腹減った……」高熱を出しているのに空腹を感じるとは皮肉なものである。しかし普段殆ど自炊等したことがない里中の家の冷蔵庫は缶ビールと牛乳が入っているのみである。こんなことなら普段から何かあった時に食べられる冷凍食品でも買い置きをしておけば良かったと里中は思った。「う……トイレに行きたくなってきたな……」本当は布団から出たくは無かったが、我慢する訳にはいかない。何とか起き上がると、壁伝いにトイレへ向かう。「……」そしてトイレから出て布団に戻る途中で里中は意識を無くして倒れてしまった——****「ん……?」次に目が覚めた時は布団の中だった。額には熱さましシートが貼られている。ふと、誰かが台所に立っている気配が感じられた。「誰か、いるのか……?」その時。「あ、気が付いたみたいだね?」台所から顔を出したのは渚であった。「な? お、お、お前……どうして俺の部屋に?」里中は布団から起き上がりながら尋ねた。「あ、まだ起きない方がいいよ。里中さん、部屋で倒れてたんだよ。熱だってまだ高いし。でも目が覚めて良かったよ。風邪薬買って来たから枕元に置いておくね」渚はお盆に水の入ったコップと風邪薬を枕元に置いた。「悪いな。ところでさっきも聞いたけど、どうして間宮が俺の部屋にいるんだ?」「お昼を食べに来た近藤さんから聞いたんだよ。里中さんが高熱を出して寝込んでいるから心配だって。様子を見に行きたいけど今日は人手不足で手が足りなくて抜けられないって聞かされたんだ」「うん、で? それと間宮がどんな関係があるんだ?」「幸い、僕の部署は今日手が足りてるから一人ぐらい居なくても